公園隣接で明るく落ち着いた雰囲気の共同墓地
新堂西公園と保育園に隣接しているため、町なかの共同墓地でありながら明るく、静かにお参りができ、通路も確保されています。国道309号線の尻ノ池前交差点を北上し、次の交差点を西へ150mほどの場所にありアクセスも至便。
また、江戸時代後期より活躍した、松原新堂利助という棟梁大工のお墓があります。
寺の保護者として、その再建を新堂の大工利助に託したのです。間口三間の本堂正面の梁にみられる彫刻や棟木を支える蟇股の端正な形を残しながら、利助は藩主の期待に応えました。本堂は、堺市の指定文化財になっています。
天保2年(1831)、利助の檀那寺であった融通念仏宗の浄光寺(新堂3丁目)本堂が再建されますが、これを指揮したのも利助でした。本堂完成にともない、利助は銀550匁を寄付しています。今のお金で200万円ほどでしょう。
浄光寺には「大工利助」として、家族の過去帳が残されています。また、新堂墓地(新堂5丁目)入口東側には、戒名と共に「松原村之内新堂 伊都利助 天保十四癸卯九月建立」「門弟中」の墓石も建っています。利助は伊都氏、あるいは伊藤氏と名のっています。天保14年(1843)に亡くなり、弟子たちが建立しました。
その子も利助の名を継ぎますが、彼も腕のよい大工でした。元治元年(1864)十代藩主秋元志朝は領内の丹南郡南島泉村(現羽曳野市島泉)に所在した雄略天皇陵を修復することになりました。江戸幕府が行った幕末の修陵の中でも、雄略陵は神武天皇陵や応神天皇陵に次いで、大がかりな工事でした。秋元氏は、大工請負を利助に命じて拝所の神明鳥居や柵などをつくらせました。利助が、新堂の庄屋芝池助一郎と連名で、館林藩の役人や丹北・丹南・八上郡の大庄屋に宛て、工事の有様を記した文書が残っています。
江戸時代後半以降、新堂在住の何人かの大工が寺社や庄屋家を普請した史料がみられますが、その代表的な大工が利助家であったことはいうまでもないでしょう。
松原市新堂地区の方のみになります。「お申込みは、原則当地域の方に限られます」