元光山東学寺は、応安元年(1368・正平23年)、大年祥登禅師が開山した、臨済宗建長寺派の古刹である。
この寺の本尊は、この地方ではきわめて珍しい清凉寺式の釈迦如来立像である。
構造は桧の寄木造りで等身大(167cm)であり、頭髪は巻縄状に彫られ、眼は彫眼で黒珠の瞳、水晶入りの耳孔、
流波状衣文の通肩法衣で、裾が三段に区分されているのが特徴である。
造立は14世紀後半とされる貴重な像で、平成4年に神奈川県の重要文化財に指定された。
山内右手に薬師堂があり、行基菩薩作と伝える寅薬師瑠璃光如来、日光・月光菩薩、十二神将の各立像が奉安されている。
この寅薬師は、もと東寺の末寺であった、寅王山東光寺の本尊であった。
この寺は明治初年廃寺となったが、本尊薬師は東学寺に遷座され、いまもなおお厚い信仰を受けている 薬師堂では、毎月8日に御詠歌講がひらかれ、元旦には寅薬師元旦祈祷が、3年に一度4月の第2日曜には、本尊薬師仏の御開帳大法会が挙行され、多くの参拝者が訪れる。
なお寅薬師は平成2年、関東九十一薬師霊場の第二十六番札所に指定された。
かながわの仏像:県内では、数少ない清涼式釈迦像の大変貴重な遺品である。原像が、京都嵯峨清凉寺本尊であるため、嵯峨式釈迦像とも呼ばれる。
原像は、永観元年(983年)に入宋した奈良の奝然(ちょうねん)が、
合州開元寺にまつられる栴檀(せんだん)の釈迦像(インドの王が名工に作らせたと伝える)非常な感銘をうけ、
魏氏桜桃製の模像造立を張延皎、延襲兄弟に託し、雍熙2年(985年)八月十六日に完成させた。
翌年帰朝して永延元年(987年)入洛、比叡山に相対する愛宕山に、
延暦寺と肩を並べる大伽藍(がらん)の造営を志した。嵯峨に、この像のための寺ができたのは、
長和五年(1016年)に奝然が示寂した直後、ともに入宋した弟子の盛算によってである。
中国開元寺像が、三国伝来の生身(しょうしん)釈迦と赤められていたため、清凉寺像にも、絹製の五臓六腑が納入され、生命を与えられたのである。
当時としては、極めて実物の臓腑に近い驚くべきものである。
平安後期以降、安楽往生を旨とする来世的な阿弥陀信仰がまん延する一方、生きることを肯定する現世的な釈迦信仰も根強く、その対象の代表ともいえるのが、この清凉寺式釈迦像なのである。
とくに鎌倉時代の復古主義や模像製作の風潮が、この釈迦像模刻を助長することとなる。
共通の特色は、縄目状頭髪、彫眼で黒珠の瞳、水晶入りの耳孔、流波状衣文の通肩法衣、などである。
ほとんどが香木で等身大に作られ、彩色を施さない(截金文様入り)、素木(しらき)仕上げとする。
当像は、原像にほぼ忠実な模刻像である。ヒノキの寄せ木造りで、像高は一六五センチあり。
その特異な風貌(ぼう)と尊容が圧倒的であり、釈迦像としての存在感が協調されている。造立期の推定は難しい。南北朝前後、十四世紀か。
当寺は、小田原市別堀にある建長寺派の禅寺。応永十五年(一四〇八)五月十五日に示寂した祥登和尚が、応安元年(一三六八)に開山した。
臨済宗建長寺派